yuku Blog|Git.

ウマ娘とファンキルとサッカーと、ときどき法律の堅いお話。

終わり方-壱 最期を迎える日について

1、数学で受けた衝撃の話

⑴「ある事象が起こらない確率」について

 数学というものを中学高校とそれなりに勉強した方は、「ある事象が起こる確率P」というようなタームには聞き覚えがあるでしょう。

 例えば、(数学的な定義は別に置いておくとして)一般的なサイコロを振って1の目が出る確率Pは、1/6と求めることができます。

 次のステップに行くと、一般的なサイコロを振って、1の目以外が出る確率Qを求めろと言われるでしょうか。あまり考えることはありません。5/6と答えることが出来るでしょう。この計算方法にはいくつか方法があるかと思いますが、次のステップとの関係から

「(一般的なサイコロを振って1の目以外が出る確率Q)

   = 1ー(一般的なサイコロを振って1の目が出る確率P)」

という考え方を採用することとします。

(より、現実的なアプローチとしては、サイコロを振って2が出る確率1/6、サイコロを振って3が出る確率1/6、サイコロを振って4が出る確率1/6、サイコロを振って5が出る確率1/6、サイコロを振って6が出る確率1/6の合計で5/6という結論になります。

 これを裏から見ると、サイコロを振って1から6のいずれかが出る確率6/6から、1が出る確率1/6を引いているような形になるので、先に見た計算式になるわけであります)

 

⑵「“何回か繰り返して、そのいずれでも”、ある事象が起こり続ける確率」について

 上で見た「ある事象が起こらない確率」については、学問上で次のような問いに進化いたします。(本論ではやや余談気味にはなるのですが、確率論の本質に触れる箇所なので、後の議論に関わるため簡単に触れていきます)

 設問から見ると、例えば「サイコロを2回振って、いずれも1が出る確率」という同じことを複数回繰り返していく問題になります。

 これもそこまで難しくはないでしょう。単純に計算して、1回目で1が出る確率は1/6、その中で、更に2回目も1が出る回を考えればいいので、1/6 × 1/6 で1/36という答えになりましょう。ここまでは、そこまで難しいものでもないかと思います。それこそ、表を書いて総当たりで行けば回答できるでしょう。

 このように、

  • 1回サイコロを振って1の目が出る確率は1/6、
  • 2回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1/6 × 1/6 で1/36
  • 3回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1/6 × 1/6× 1/6で1/216

             ・  
             ・
             ・

  • n回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1/6 × 1/6 × ・・・× 1/6 × 1/6で 1/(6のn乗)

という理解となることかと思いますし、また、一般的にそのような教育を経ているかと思われます。

 

⑶「“何回か繰り返しても”、ある事象が“起こらない”確率」について

①問題の所在

 一番上の目次を見て貰えば分かるのですが、本記事の結論は「3」で触れるところなので、議論のレベルで言うと、この部分はスタートの部分、主張の前提と呼ばれる部分となります。だというのに、ようやくこの部分における主題に入りました。普段の記事を見て貰えば分かると思いますが、割とくどい主張の書き方をしてしまいますので、ご容赦いただきたいものです(こんなブログを誰が読んでいるのか、と思うのだけれど)。

 さて、この項目で議論の対象としたいのは、例えば「2回サイコロを振っても、1の目が1度も出ない確率」という問いに集約される領域です。

 この部分は少し難しい概念を含みますので、少し噛み砕いて展開を行います。

②否定とは;「〜でない」の意味

 「2回サイコロを振っても、1の目が1度も出ない確率」を考える場合、サイコロの出目は36通りしかない(36通りもある、とも言えますが…)ので、全て書き出して検証することができます。ただ、当然ですが、⑵で触れたように、また、下で触れる2以下で議論を展開することとも関連してしまうので、サイコロがもっと数が多い状況についても議論の俎上に置くことになりますため、もう少し抽象的に考えてみたく思います。

 確率の考え方(あるいは、類似のものとして、もっと広く一般に、将来の予測の方法として、)として、「当てはまらないものの確率を引く」という考え方があります。「2回サイコロを振っても、1の目が1度も“出ない”確率」という設例でいえば、「1の目が“出る”確率」を引く、という考え方があります。

 ところで、「1の目が1度も“出ない”確率」の否定としての「1の目が“出る”確率」とは、どのような意味合いを持つでしょうか。すなわち、「1の目が“出る”」と評価できる状況は大きく分けると3パターンあるかと思われます(サイコロを2回振ることを想定します)。

 (ア)両方とも1の目が出る場合

 (イ)どちらか一方が1の目が出た場合(両方1の目が出る場合を除く)

 (ウ)最低限どちらか一方が1の目が出た場合(両方1の目が出る場合を含む概念)

 これは国語の問題と言える領域なのですが、「1の目が1度も“出ない”確率」と完全に相反する状況は、(ウ)であります。なぜなら、サイコロを2回振った場合、1回目で1が出た場合も、2回目で初めて1が出た場合も、あるいはその両方で1が出た場合も、「1の目が1度も“出ない”」という状況とは言えないからです。

 従いまして、「1の目が1度も“出ない”確率」の計算には「(ウ)最低限どちらか一方が1の目が出た場合(両方1の目が出る場合を含む概念)」を計算して、これを1(=100%)から引く、というのが王道となります。

③最低限どれかで1個は1の目が出た場合(複数回、あるいはその全てで1の目が出る場合を含む概念)

 この項目のタイトルは上で見た「(ウ)最低限どちらか一方が1の目が出た場合」と若干、表現が異なっています。これは、(ウ)はサイコロ2つを振ることを考えていましたが、ここからはそれ以上の数のサイコロを振ることを意味するためニュアンスを改めております。

 「最低限、1回は起こる確率」という計算のスタートアップは、この感覚を理解するのが一番難しいのですが、「一度も起こらない確率」というものを計算することでしょう。上の例で言えば、何個かサイコロを振るい、その全てで1の目が出なかった場合を検証し、その確率を求めて、全体の「1」(分かりにくければ100%という感覚)から引けば、「どれか1個は1の目が出る確率」というものを求めることができます。

 今回で言えば、サイコロで言えば、1の目が出ないとは、2〜6のいずれかの目が出ることを意味します。その確率は、1つのサイコロにつき5/6と評価できます。サイコロが2つであれば、5/6 × 5/6 で25/36となります。このように、

 このように、

  • 1回サイコロを振って1の目が出ない確率は5/6 (=約83%)
  • 2回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は5/6 × 5/6 で25/36(=約69%)
  • 3回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は5/6 × 5/6 × 5/6 で125/216(=約57%)

             ・  
             ・
             ・

  • n回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1/6 × 1/6 × ・・・× 1/6 × 1/6で (5のn乗)/(6のn乗)  になるわけです。

 そして、ここで考えている主眼は、上で見た「どのサイコロも1の目が出ない=いずれも2〜6の目が出る」ではなく、その逆に当たる「どれか1個は1の目が出る確率」ですので、分数であれば1から、%表記であれば100から確率を引いていくことで求めることができます。すなわち、1回サイコロを振って1の目が出る確率は 1ー(5/6)=1/6(これは計算するまでもないですが…、)、2回サイコロを振って少なくとも1回は1の目が出る確率は、1ー(5/6 × 5/6)=11/36となり、このように、

  • 1回サイコロを振って少なくとも1回は1の目が出る確率は1ー(5/6)=1/6(=約17%)
  • 2回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1ー(5/6 × 5/6) で11/36(=約30%)
  • 3回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1ー(5/6 × 5/6 × 5/6) で91/216(=約42%)

             ・  
             ・
             ・

  • 10回サイコロを振って両方とも1の目が出る確率は1ー(5/6 × 5/6 × ・・・× 5/6 × 5/6)で 50,700,551/60,466,176  (=約83%)になるわけです。

 ここで、1つ注目に値するのは、サイコロをたくさん振れば振るほど、そのうちどれか1つでも1の目が出る確率というものはどんどん上がっていく、という点です。これが20個、30個、100個と振っていけば、そのどれかでは1の目が出る可能性はどんどん大きくなり、最終的にはほぼほぼ100%となります(たくさんのサイコロを振ることをイメージすれば、そのうちどれか1つは1の目が出るだろうな…というのは、体感に合うものではないでしょうか)。

 すなわち、それ1つでは起こる確率の低い事柄でも、何度も何度も続けていけば、どこかで1回は起こってしまうことになるだろう、そうなっても特段おかしくない、というのは、どうしても避けがたい真理と言っても差し支えはないでしょう。

 これは、僕にとってはとても大きな衝撃でした。

 

2、僕の生きる上での選択肢とリスクについて

⑴リスクについて

 上で見たように、「一度も起こらない」確率というものは、試行回数が数多繰り返されると、どんどんと小さくなっていきます。逆説的に言えば、「何かが起こる確率」は飛躍的に可能性が増えていきます。これは、先に見た例で言えば、サイコロの出目という絶対的に各出目が出る確率が1/6という確定的な確率のみならず、発生確率が変動するような事象にも当然ながら当てはまります。これは確率という机上の確率論のみならず、実生活でも大体同じような感覚が当てはまることともなります。

 僕の確信的な信念として、ミスは絶対に避けられない、というものがあります。多くの方が実体験として経験があるかとは思うのですが、どれだけ注意したことで、大小さまざまなミスというものを完全に防止することはできないかと思われます。もちろん、避けられる可能性自体は常にあるとは思いますけれども、完全にその発生を0にすることは全くもって不可能です。

 そうすると、日常生活で、あるいは業務上で、そのミスが起こる可能性・リスクは小数で言えば小数点第何位まで0が続くこととなり、分数で言えば分母がとんでもない数になることはあれども、確率としては絶対的に0にはならないのです。

 それは、日常生活や業務上のミスであれば、いくらでもリカバリーの方法はあります(頭を下げながら汗水垂らして駆け回る必要はあるかとは思いますが…)。ただ、このミスは、人死にーー、すなわち僕が今日この後に死んでしまう、という確率も常に少なからず0ではないというのは、なかなか恐ろしいことかと思います。しかも、それは例えば、僕が信号が赤なのを見逃して車道に出てしまうような自分のミスに起因する場合なら納得こそ行くのかもしれませんが、例えば道を走っている車を運転している僕と全く関係のない他人が信号を見落としたり、スピード違反したり、その結果として僕が轢かれて死んでしまう、という他人の意図せぬミスによる死亡ということも確率論として0ではないのでしょう。

 この、一瞬一瞬で全く0ではない死の確率というものが、これから人生が続く限り、無限に試行回数を増やしていくーー、無事に老衰で人生を終えられる確率ってどの程度のものなんでしょうね…という感覚は常に心の中を占めています。

⑵選択肢について

 僕もそうであるように、人間は生きていく過程で、大小さまざま、深刻度合いこそ違いますが、色々な選択をして日々を過ごしていきます。今日のお昼はどうしよう…のような些細なものもあれば、どの大学を受けようとか、どの職域に就職しようとか、そういう大変に人生に関わるものもあることでしょう。その際、頭の中にはいくつかの選択肢が浮かんでいると思います。先の例で言えば、「今日はコンビニのパンを買おう」だったり、「何か今日はラーメン食べたい気分だな」とか「最近太り気味だからダイエットのため我慢しよう…」(それでも何か口に入れた方がいいですよ…)とか、そういうものが頭に浮かぶでしょう。ゲームが好きな方は、画面にいくつか選択肢が表示されて、👉で選ぶような感覚があるかもしれません。

 反面、このようなポジティブな選択もあれば、ネガティブな選択をしないといけない状況もあることでしょう。仕事でミスしてしまったとか、試験の結果が悪かったとか、そういう状況を考えてみれば分かるでしょうか。こういう場合、人間であれば多少は仕方ないのですが、逃避の選択肢が頭に浮かぶことがあるかと思います。例えば「隠蔽しよう」とか、「怒られたくないから今日は休もう」とか、「仕事やめよう」とか。一部の人にとっては、あるいは、そのミスが重大であればあるほど(実行しないまでも)「死」というものが頭に浮かぶ方も居るのではないでしょうか。

 僕も割とその立場で、どうしようもないミスをした折には「死にてぇ…」と思うこともあります。もちろん実践したことはありません。

 ただ、少し他の方と違うらしい…?と思う点として、特に状況を問わず「死んどくか?」という選択肢が常に画面に表示されてしまっている、という点があります。別に、ツラい時やネガティブな時だけではありません。お昼ごはんを決める時にも「今日はカロリーメイトの気分」「この前の麻婆豆腐おいしかったな…、この時間なら空いてるかな」「晩御飯しっかり食べて帰りたいからお昼は控えめにしよう」「死んどくか」…ギャグみたいな状況ですが、これくらいのラフな感じで、明らかに異質ながらも、どんな瞬間、どんな状況でも「死」が選択肢に入っている人間です。時々、学生さんの自殺事件の際に見られる経緯ですが、「今が幸せだから幸せなうちに死のう」とか、そういうものでもありません。ただただ、選択肢として表示されてしまっているだけのことで、これまで選択したこともないですし、選択肢にカーソルを合わせたこともありません。

 ただ、時々思うのですが、例えば人生の分水嶺になるような大きな決断であれば、全ての選択肢を吟味して、選ぶ理由、選びたい理由、選びたくない理由、選ばない理由をそれぞれ検討して選択肢を絞っていくことになるでしょうし、実際僕もそのように選んできた結果の今があるわけです。しかし、お昼ごはんの決め手なんて、精々が「何となく」程度でしかありません。そうすると、いつかその「何となく」の延長線上で、その選択肢を選んでしまう日が来るのではないかなぁ…と思う瞬間はあります。

 

⑶人生観について

 ⑵で見たようなのは、少なくとも積極的な死というものではありませんが、それはそれとして、全くの別ルートで死というものとの向き合い方をしている部分があります。

 すなわち、誰にも迷惑をかけぬ死、というものの在り方については常に考えているところはあります。これは意外と難しいものであります…、どうあれ、誰かに迷惑や心配、ショックを与えるところはあるでしょう。今、住んでいる住居は賃貸物件ですので、ここで死を選べば、この物件の所有者・貸主の方、不動産会社の方に賃料減額という迷惑をかけることとなるでしょう。また、我が国の自殺の名所であるところの駅での電車への飛び込みを考えると、電車遅延で乗客にも迷惑をかけてしまいますし、バラバラになった僕の手足を拾い上げてもらう駅員にも余計な業務と心理的負荷を与えてしまうのも気が進まないところです。富士の樹海や東尋坊といった名所?も自治体では迷惑がっているとのことです。そうすると、死を選ぶ安息の地はどこにあるのでしょうね…、後に別の記事で触れたいと考えていますが、僕が安楽死肯定派なのはそういうところが原因だったりします。

 とはいえ、積極的に自死を選ぶ理由は、今のところ特にありません。お金にも困ってないですし、健康面も特に問題もなく、職業もそこそこ、その中でのスキルアップも順調?ですので、恐らくは特に選ぶべき理由はないのです。

 ただ、「誰にも迷惑をかけぬ死」探しはは結構、真面目に喫緊の課題だよなぁ…と考えているところはあります。今すぐ必要でなくても、いずれ必ず必要になることは、事前にしっかりと準備をしておきたい人間です。常にそのように生活するよう心がけ、いざ必要になった時に慌てることなく、余裕を持って対応できるように準備しています。

 実は、僕の人生観と言いましょうか、先に触れた人生における選択肢の選び方は、実にシンプルで、基本的に気楽に生きて、楽な道を選んで、選んで選んで選び続ける、というものです。主体的に、全力で努力したことなど、ほとんどありません。年齢的に小学校の途中からゆとり教育が開始されたので、周りの雰囲気と、そして父母からせっつかれるままに中学受験を目指しました。状況から納得はしていましたが、個人で求めたものではありません。その過程で、かといって全力で頭に知識を詰め込むようなこともしませんでした。毎週の授業を受けて、宿題をこなして、それで理解・記憶できない内容を敢えて強いて暗記しようとも思いませんでしたし、その努力もしませんでした。その結果、それなりの私立の中高一貫校に合格し、6年間通いました。同じような感じで勉強をして、そこそこの大学の名門法学部に入学しました。この進学先を選んだ理由は、卒論が無かったからです。そして卒業して、某大学院のロースクールに通いました。これは、ちょうどタイミング的に就活の時期が、民主党政権東日本大震災に被ってしまって、就職氷河期だったので、気合を入れて就活しても就職先が見つからない状況でしたから、そんな無駄な努力などハナからごめんだったため、今の成績で行ける大学院があれば行きたくて、行けた。ただそれだけに過ぎません。ロースクールでありますから、周囲は弁護士や裁判官、検察官へなるべく司法試験に向けた勉強をしていたわけですが、別に僕はそういう感じでもありませんでした。ふわっと卒業して、ふわっと司法試験を受けて、ふわっと落ちたので、司法書士事務所でふわふわ働き始めて、ふわふわ何回か転職して…、今は法律事務所に流れ着いた、という程度の、特に目的意識も、それを達成するための努力とも無縁の人生でした。振り返ってみると、呆れ返るような人生観です。

 もちろん、このような感じですので、当然、将来のことは少し考えていますし、憂いているところもあります。恐らくーーというか、どこかで人生が行き詰まるんだろうなぁ…とは感じている、というより、そのレベルを遥かに超えて確信しているところですし、そして、その覚悟は付いているつもりです(もちろん、いざその時になったら後悔や苦悩に苛まれてしまうのかもしれませんが)。

 ただ、その未来が分かっていて、それでも尚、今からその未来を回避しようとか、あるいは、いざその時に少しでも状況を改善するべく、ーー歯を食い縛って頑張る、ということは、絶対にやりたくないんです。いえ、正確に言えば、やれないと思うのです。それは、身体面でも精神面でも、恐らくそこで歯を食い縛って、本腰を入れて、懸命に足掻く、そのようにはこの身体はできていないようなのです。そして、生まれつきそのような弱さを抱えていることに加えて、その後も努力らしい努力もせず、負荷らしい負荷もかからずに、最も成長できるはずの期間を無意に過ごしてしまったので、もはや取り返しがつかないのでした。それならば、と、敢えて言うなら、そう、“死んだって”、やりたくないのです。仮に死ぬことになっても、足掻いて、努力して、生き抜くようなことはしたくないですし、するつもりもなく、そして悲しいことに、する能力すらないのだと思います。

 故に、そのような陥穽に追い込まれていることに気づいた時には、「あぁ、人生楽しかったー♡」で終わりにしたいと、そのように思っているわけなのです。積極的な自殺・自死をするつもりは毛頭ございませんが、消極的な自殺ではあるのかもしれません。仮に、そう、仮に、急転直下、明日にそのような目に遭うとしても、「楽しかったー♡」と胸を張って言えるような人生でしたから。もしかすると、何か目的を見出して、人生を賭して努力し、何事かを得、何者かになり得、ーーそしてもしかすると、その願いが叶わなかったとしても、きっとその人生は幸せと呼べるのかもしれません。ただ、僕はそのような道を辿らなかった、辿れなかった、だから、抗うことはしない。粛々と、結末を受け入れるだけにしたいのです。とてもとても、楽しく、幸せな人生でございましたから。今この瞬間に終わっても、特に悔いはありません。

 

⑷死別観

 また、これは常々思うことですが、ここで触れた死別というものはーーおそらく大多数の方にとっては偶発的な死の箇所を除けば概ね理解されないものでしょうが、反面において僕を含む全ての人類は、常に偶発的な死のリスクに襲われていることは理屈の上では理解できるでしょう。漫画や小説の狂った思想家のような、人類を死から救済する、というような使命を帯びているわけではありません(もっとも、それが叶う手段が目の前にあれば躊躇なく手に取るとは思いますが)。ただ、このような偶発的な死によるとよらずとを問わず、死別ーー、そう、今日この瞬間に出会った人が、自らの死の瞬間に人生を振り返ってみると、実際に対面するのはこの時が最後だったなぁ…ということがあるのではないか。そのようなこともあるのではないかと常々考えているのです。そして、そのような形の死別は、さして悲しまれるものでもないでしょう。

 そうであればこそ、なのでしょうか。僕の悲しい生き方なのか、元より感謝や感動といったポジティブな部分も、悲しみといったネガティブな部分も、感性が極めて鈍麻なのでしょうか。僕は、人の死というものを悲しく思ったことがないのです。もちろん、最も近しい家族を亡くしたわけではありません。同居していたのは父母だけで、兄弟姉妹はいません。そして、父母は健在ですので、これまで亡くなった親族で最も近いのは祖父母と叔父ということになりましょう。父方にせよ、母方にせよ、祖父母にはとても良くしてもらったと感じています。感じていますが、ただ、それはとても抽象的で、何一つ具体性を伴いません。祖父母と初孫の関係で言えば、何かもう少し思い出らしい何か、それらしい関係性などもあったのかもしれませんが、想起される記憶は、どうしてかとても遠いのです。遠いですが、果たして、良くしてもらったという実感があります。

 ありますが、しかし、祖父母の葬式でも特に悲しくならなかったのです。涙の一つも出ませんでした。死んだ頬を撫でたり、手を握ったり、そういう行動も自発的には生まれませんでした。共同体の死を悼む、そんな生物としての必然が、無かったのです。母方の祖父が亡くなった時に、それを母に責められたのがツラかったことだけを覚えています。ただ、先に亡くなった父方の祖母の時にも同じだったので、もう、何と弁解すれば良いのかも分かりませんでした。ーーこの理由は分かりません。先に触れた死別についての感覚に起因するものなのかもしれませんし、あるいは、元々がそういう風に生まれ落ちてしまったのかもしれません。様々なリスクがあるとはいえ、一般的に言えば、僕より父母の方が先に亡くなるでしょう。その時に、悲しくなるのか、ならないのかは、僕には分かりません。自信が持てません。

 ただ、その根源にあるのは、やはりある程度の覚悟と納得なのではないかと思います。祖父母ともにそこそこの年齢まで生きたものですから、最期は病院で入院していたと記憶しています。その時、どこかで覚悟をしていたのかもしれません。もう二度と会えないだろう、と。それならば、突然の死を迎えた際の突発的な巨大な喪失感とは、いくらか異なるものでしょう。先の例とも繋がるのですが、喪失感を長い時間の中で希釈して感じることで、心の閾値を超えることが無かったのではないかな、と何となく感じています。

 

⑸だからこれは、 

 敢えて言うならば、死んでないから生きている、という程度の生き方なのかもしれません。死に対する抵抗感もなければ、寧ろ、精神構造が死に近いところにあるーー、このように仮定すれば、様々なことに合点がいきます。

 ーーだから、これは遺書、なのでしょう。

 何の音沙汰もなく、ポストや、ブログの投稿が止まったら、死んだのだろうと思ってください。それは偶発的な原因によるものか、自ら死期を悟って故意に及んだかに差はあるかもしれませんが、結局のところ、その日以降、もう二度と何かを話すことはない、交わることはないという点で大きな差はありません。

 

3、この2つ感覚の交叉点

 以上のように、いつ死んでもおかしくないという二重の偶発性、そして、いずれ必ず訪れる自死の瞬間への予見から、僕は常に心がけていることがあります。第一には、主に仕事面として、いつ事故に巻き込まれたとしても、後に残された人が苦労しないよう、常に作業進捗を文面で残し、何をどこまで進めたかというのを常に後から、あるいは他人の目にも分かるようにしています。また、これらは、もし僕がある日ある瞬間にほんの些細な人生の中の選択の一環として、ほんの些細な気まぐれで、その決断を選ぶことになっても、仕事のことで後ろ髪引かれることなく、自由に完全なる自分の意思で、その終わり方を決めたいと考えているからです。自分の生き様を決め、死に様をも決めることは、人間が人間たり得る最も根幹の部分だと思うからです。また、そのような本質的欲求に基づく理由ももちろんですが、また大きな理由の1つに、自分の決断をしたこと、あるいは、しなかったことに、他人の存在が介在し、それが決断理由となってしまうと、どうしても「僕はこうしてあげたのに…」という図々しくも独りよがりな想いに駆られてしまいます。そしてその感覚は、時として僕の他人への態度に表出するでしょうし、また他人をしても何故そのように言われるのか分からないという不信に繋がる…と、結局のところ、そのような方式の決断は双方にとって良い結果をもたらさないもの。

 故にこそ、いついかなる時に死んでも構わないと思い、あるいは死ぬと決意したらすぐ実行できるように、常に自分の作業は外から観測されるように心がけています。毎日何らかの形でツイート、ポストを続けてきたことも、そして今、ブログを立ち上げたのも同じこと。いつか死に、無となるなら、その前にとりあえずは生きていた痕跡を世の中の片隅にひっそりと残しておきたいのです。このように考え、この時にこのように思っていたんだなぁと、後から、あるいは誰から、見られても、明確になるように。そこにさしたる意味などありません。読み返すこともないですし、読み返されることもないでしょう。ただ、特にポストに関しては、それが途絶えたことをもって、死んだとそのように捉えてもらう、そのような消極的な内容で構わない。

 だから、このような文体も、そして、リアルの口調も、割とくどいところはあるのかもしれません。丁寧に、今の私が何を思って、危惧しているのか、何故それを伝えようとしているのかが、必ず伝わるようにしています。そうでなければならないから、です。

 もし、それを最後に二度と言葉を交わすことがなくなったとして、誤解されたままでは悲しいものですから。